2016年4月27日水曜日

ネットばなれ


結構なネットジャンキーだと自分のことを思うのだが、いわゆるネットジャンキーな使いかたをしていない気もしている。


情報を調べてリンクをたどってどこまでもサーフィン (死語?)していったり
ゲームにハマったり友達とおしゃべりすることを楽しみにしていたり
だれかのファンになって発信を楽しみにしてみたり


どれもそれなりに短期間やっては飽きを繰り返し今に至る。


いまだに変わらないのは、ただもくもくと自分でこうして何かブツブツと書いてることだけ。
これ自体だけが唯一わたしにとって脳内を整頓するものであり、精神を落ち着かせる行為。


だったのだけど、最近はネット自体少し離れ気味。
パソコンの前に座ってる時間が減ってきた。



読書がたまらなくおもしろいってのがひとつある。
電車に乗る時間が増えたせいでまたぞろ本を読むようになり、 それらが意外なほどたまらなくおもしろくてどっぷり。


季節が良くなって出かけるのが楽しくなってきたってのもある。
ひとりでも、誰かと一緒でも構わず。
もともと遠い昔の本来は歩きおたまだったため、いったん出かけるとアホみたいにフットワークが軽くなる。



あとはたぶん、妙な責任感や義務感みたいなものからの解放、ってのもあるんだろうな。



ネットの世界って棲息していると「棲息している主張」をしないといけないみたいな空気感がある。

自身もそう感じてた時期があったんだけど、たとえば

「よく更新してる人」が全然更新しなくなると心配されたりするじゃない。


もちろんその心配の多くは社交辞令みたいなもので、まるで気にかけるほどのものじゃないことはわかっているけれど。


それでも人というのは無意識下でそういう意識が働くんだろうね。



徐々に頻度を減らして、ヒトの投稿へのリアクションも減らして、棲息の痕跡をひそめていったら


興味自体が減りました(よく考えると当たり前の帰結だな)。



出先で気になったモノの写真を撮ったり、食べたモノの写真を撮ったりしても


そうだ、SNSに投稿しよう


みたいな気持ちにもあんまりならなくなった。


…いやまあ、スマホじゃないから投稿がリアルタイムではできないって事情もあるにはあるんだが。



とまれ悪い傾向ではけしてない。

無駄にモニタの前でぐるぐるしてる時間が減るわけだから。



もっとも、そういうのも自分の中でははやりすたりあるから、また寂しくなったり脳内散らかりだしたらうるさく投稿活動はじめるのかもしれないが。




せっかく撮ったけど行き場のない写真だけ記録代わりにのっけとこう。

書かなくなると、いつどこで何がっていう記録がなくなることは個人的にとっても困るんだよね。

アナログで日記でも書こうかなあ。







よく父が散歩してた道。歩くとやたらに文学的なフレーズばかり思い浮かぶ不思議な道。



 新しくオープンした近くの店に仕事仲間と行ってきた。わたしにゃ不似合いのオシャレな空間が楽しかった。料理は…まあまあだったかな。




 旦那様と近所をハシゴ酒、わたしも珍しくお酒を飲んで楽しい夜、の帰り道、線路でなにやら行われていた。
夜中までおしごとおつかれさまです。




高校生の頃みんな食ってた箱根そば。わたしはお嬢ちゃんだったので(←?)当時は食ったことがなく。
コロッケそばがいいと当時の同級生たちが口を揃えて言うので初挑戦。

うまかったよ!



2016年4月19日火曜日

歩んでほしい


ここんとこ気持ちぐるぐる。地震の報道で不安や無力感が募る。
気の毒だし、がんばってくれ、やれることはやってあげたいと思う一方でシビアに明日は我が身とも感じている。


優先順位の高いことからかかっていくから、最低限足りた暮らしになるまではしばらく時間がかかるだろう。
水も食料もまだ全然じゅうぶんには行き届いていないが、かといってやみくもに外の人間が動いたところで公的組織や当事者たちの邪魔になる恐れもある。
こういう時には本当に「でかい単位で」動ける組織や企業の力がものを言う。
そのあとでようやく、小さな単位で細やかな支援ができる人たちの出番が来るのだろう。


さしあたりなにもかも足りないサバイバルな暮らしを強いられることになるが、その日々はある程度時間が経てば解消される。
最低限のレベルでは、って意味。


どうにか渇かず飢えず、衛生面も安定して当面の危機を脱したら次はあったかい布団で眠りたい、お風呂に入りたい、その他たくさんの「当たり前の日常なら当たり前に享受できていたこと」ができない現状にストレスが高まるだろう。


次に大変なのはそこから。震災から日が経ち人々の興味は薄れ、でも失われたものが戻ってくることはなく、途方に暮れる明日が続く。
ことに積み重ねてきたものの多い高齢者の絶望はいかばかりかと思う。



人の興味は移り変わりが早い。自分に直接利害の少ないことならなおさら。
だからいまは九州がんばれとか心配していますとかあんまり言いたくない。



ただ、痛んだ心が簡単に癒えないことは知ってるから
そしてこれから先も、幸いにも残酷にも続く明日があるから




人は強い。あきれるほど強い。


2016年4月13日水曜日

気ばかり焦る


旦那様からのしごく簡単な頼まれごとのひとつすらやっつけられずに気持ちばかり焦っている最近。

根つめてやりだしちゃえばすぐなのもわかってるのにやりだすことができない。



時間がないわけじゃない。全然そんなことない。

いやむしろ逆に、やりだしたらすぐ終わる、のがわかってるから、やれない。

あるいは「終わるのが怖い」部分もあるのかも。



コウノトリ計画も、少しずつ前進。

もう数えるほどの検査を残すのみ。1周期待って、あとはAIHにステップアップだ。

それもやっぱり、気ばかり焦っている自分がいる。

いやこっちはむしろ、もっと焦らないといけないのに気持ちだけで行動がついていってない、のかもしれない。



そしてこちらはたぶん明確に、「終わるのが怖い」んだと思う。

終わるときは、かならずなにがしかの結果が出てしまうとき、だから。



なにかを抱えていないと生きてる意味が見いだせない気がして不安で、

なにかを抱えているとそれをどうにかしなければと四六時中重くのしかかってくる。




旦那様に言われた言葉がとても印象に残っている。


「無理やり要素を探してきて不幸になるのはやめようよ」




ああホントそうだな。そういう感じだ。




ちかごろ仕事があまり楽しくなくなってきた。

あんなに楽しくてあんなに好きだったのに。



いや厳密には、仕事自体は変わらず楽しい。

スイッチ入ってる時間はなんも考えずにすむし、お客さんと触れ合うのも楽しい。




でもなんかこう、店への情熱とか愛情が、明確に冷めてきてるのがわかる。

恋が冷めた感覚に近い。



原因はいくつも考えられるけど、やっぱ一番は自分自身の気ばかり焦ってる現状なんだろうな。

それに伴って閉鎖的になってる自身の気持ちの問題なんだろうな。



ほぼ寝たきりになってしまった父と、それと知りつつ神様に健気に祈り続ける母とも

あとどれくらいの時間をいっしょに過ごせるのだろう。

孫の顔は見せてあげられるのだろうか。



かれらを失った時、わたしはうまく泣けるだろうか。




気ばかり焦る、アラフォーの春。


2016年4月12日火曜日

たんすがいっぱいです


書きたいことは常にたくさんあるのだが、消化しないうちにどんどん時間と共にたまって行く。


思考の核みたいなものがもくもく見る間にふくれあがっていって、でもぎゅーっと凝縮するとひまわりの種くらいのサイズにおさまってしまうから、 じゃあいいか、ってタンスの中にしまっちゃう。


短いスパンでそれは繰り返され、あ、この種に似たやつついこないだ見たな、って思ってタンスの引き出しを開けると、見分けもつかないような種があふれんばかりに入ってて、収拾つかない気持ちで見なかったことにして静かに引き出しを閉める。



みたいな今日この頃です。





休日は東京散歩。基本旦那様と一緒だとどこ行っても楽しいです。
今回は上野~入谷周辺と、秋葉原~神田周辺。



古くてすてきな写真館。このあたりは驚異的、あるいは絶望的なほど電線がスゴイ。









もう営業してなかったけど銭湯。下町だねえ。





秋葉原はいつもの顔。旦那様の新しい相棒を物色に行きました。



神田まで歩いて麺屋武蔵。昼時外したのにえらく混んでいた。






たんすの整理、する間もなく中身だけがものすごい勢いで増えて行って途方に暮れる日々ですが、


ほっとくわけにもいかないもんな、自分の脳内タンスだし。




一念発起して断捨離するべきなんだろう。




あ、脳内だけでなくてリアルのタンスもね…

2016年4月8日金曜日

味付け


先日行った小樽ラーメン。








すごくおいしかった。

味噌ラーメンあまり好きでないんだけど、これは実においしかった。



なんか物足りない感じはするんだよ。

個性がないっていうか、パンチが足りないっていうか。



だけど総合的にすごくまとまってて、ラーメンにふさわしい誉め言葉じゃないけど上品で。


すごくおいしかった。





美味しんぼ曰く暗い情熱が感じられるニッポンにおけるラーメン。

やっぱラーメンには、食った後しばらく動けなくなるような驚異のパンチ力が欲しいと思ってしまう。

食べ終わった後、もうしばらくラーメンはいいや…って思えるような。




ラーメンだけでなく、ヒトもおんなじやね。



毎日食べられる無難な味付けもいいけど

強烈な印象を他人に与える癖のある人、個人的には好きです。




できるなら自身もそうありたいんだが


ビビりなわたしは無難な調味料をごんまり足して味をごまかしてる感じなのかな。


2016年4月6日水曜日

がんばる




自覚はなかったが、このところ不安定だったようだ。


言われたことや頼まれごとをやたらためてためて、じぶんで積み上げて自分で身動きできなくなってた。


冷静に考えればなんでもないことばかりなのに、滑稽なほど煮詰まって。



引き受けたタスクがずっと頭の隅に引っかかって、なにをしていても中途半端に散漫になる。


だったらさっさとやっつけちゃえばいいのに、いつまでもダラダラ義務感のストレスだけ募っていき、いつの間にか大変な案件を山ほど抱えて進退窮まる人みたいになってた←イマココ



上がろうと思ってすぐ上がれるもんでもないけど、ここにいつまでも淀んでるわけにもいかない。



がんばるぞ、って思うと苦しくなっちゃうけど

がんばらなくていい、って思うとますます深みから抜け出せなくなるから(性質上)





がんばる。



 





2016年4月2日土曜日

質より量


父が入院して もう半年以上が過ぎたが、相変わらず週1のペースで実家へ行っている。

父の見舞いはもちろん、ひとりきりの母と過ごす時間を持ちたいのでその際は泊まりにすることが多い。




日帰りで行けない距離では全然ないのだが、そうすると母とゆっくり話すことが叶わなくなる。

たった1日泊まるだけでも自分の暮らしが少なからず乱れるのがわかるが、

見舞い自体も母もあまり急激に回数を減らすと

見捨てられた気持ちになるのではないかと不安で、なかなかそうできない。




実家へ行ったところで古い友達と飯を食うでもない。

ただ、懐かしい場所へひっそりと足を運ぶことはたまにある。






そんな懐かしいひと箇所。

女子高生の頃、なぜか流行っていた「デカいパフェ」のお店がまだ営業してて嬉しい限り。




すごくおいしいかと問われると普通においしいと返す感じになるが、

写真以上にメガ盛なパフェが当時から名物で、それだけでもじゅうぶん


「一度食べる価値はある」シロモノだと思う。



質より量、という言い方はあまり正しくないが、



抜群な美味でないならメガ盛にしてみるというのも戦略的にはアリだ。




わたしくらい味オンチだと、おいしかったとすごくおいしかったくらいの差異しかないので、


むしろインパクトあるもののほうが印象に残ります。

2016年4月1日金曜日

プレッツェル



比較的近くにあるんだがなかなか機会がなく、ようやく初アンティ・アンズ。



つかプレッツェル自体なじみがない。非常にない。塔の上のアレしか連想できない。 



夢の国で売ってるチュロスとかも頭の中でごっちゃになっている。





 おいしい。おいしい。これ大好き。



思ったよりもちふわしてて、




塩味がたまらん。



つか塩がうまい。




足りずにその場で2個目を食った。


塩パンとかも大好きなわたくし。これはハマりそうだ。 





プレッツェル自体はアメリカはもちろん、ドイツで広く食べられているとのこと。


どうしても「プリッツ」が頭をちらつくせいか、あんまりうまくイメージしにくい食べ物だけど、




塩味がうまいお菓子って認識でOKな気がする。




そしてわたしは塩味が大好き。

つか塩が好き。




塩だけ舐めてろってよく言われる。

実際幼少期、食卓塩を掌に出してずーっと舐めてた時期がありこっぴどく叱られた記憶がある。



何かにつけて食べるからおいしいんだよね、塩。


ちょっと足りないくらい、塩味の余韻を名残惜しく感じる瞬間がたまらない。




 
…ああ、いや、 塩の話じゃなくて?

プレッツェル、うん、おいしかったよ。